2012年02月06日

東日本大震災ー女川町民弁論大会復活を

2011年は間もなく終わる。3月11日、東日本大震災に襲われ、多くの人命が失われるなど被災者の皆さんは苦悩の中で新しい2012年を迎えるだろう。
 私は2月15日、ラジオ石巻の社長を退任し仙台に居住しているが、取締役相談役なので時折、石巻へ行き、壊滅的状況になった沿岸部をマイカーで回り、自分の目で見てきた。子供を奪われた父母の「なぜわが子が」という悲嘆にくれる声に涙した。
 多くの友人、知人を失い葬儀に参列したが、もっと備え、心構えをを持っていればこれほどの犠牲者は出なかったのではないかと、思ってしまう。マスコミに40年以上携わってきた者として、大地震、津波の襲来について強い警告と行動をしていればと、悔やまれてならない。
 そうした様々な出来事の中で、45年間も続けてきたきた”手づくり町民弁論大会”として全国でも例を見ない女川町民弁論大会について触れておきたい。私は記録者として”生き証人”の1人であるからだ。女川町も甚大な被害を受けた。
 第1回大会は昭和41年(1966年)11月3日「文化の日」に開かれた。石巻高校同窓会の女川鰐陵(がくりょう)会が主催し、対象は中学生だった。同54年(1979年)の第14回大会から若手経済人で組織する女川金曜会が主催者に加わり、高校生を含む社会人の部を設けた。さらに平成13年(2001年)の第36回大会から小学生の作文発表も行われ、全町民の弁論大会になった。
第1回大会から36回まで石巻鰐陵同窓会長の鈴木寿男さん(故人)が審査委員長を務めた。私は昭和55年(1980年)4月、河北新報石巻支局長として赴任、地域新聞「石巻かほく」の創刊現地責任者となった。鈴木委員長から「審査員」にという要請があり、女川のことを知るよい機会と思い引き受けた。石巻支局勤務中の4年間、第15,16,17,18回弁論大会の「文化の日」には夕刻から鈴木委員長と会場の公民館に出かけた。
 10選町長として有名な木村主税さんは必ず顔を出して挨拶、終了まで弁論を聞いた。弁士は水産業、役場職員、先生、看護師を目指す女子高校生ら多士済々。中学生はスポーツ活動、女川の未来について熱弁をふるい、地域を愛する気持ちに感動した。鈴木委員長は「雄弁は力なり」と励ました。公民館は木造で、寒い時もあって石油ストーブで暖をとった。
 そのころは東北電力女川原発1号機の建設中だった。
 平成16年6月にラジオ石巻の再建役として社長になった。同19年(2007年)に2代目審査委員長の平塚善司さん(弁護士)から審査委員長を依頼された。24年前の感動を呼び戻したいと思った。第42,43,44,45大会の4回、委員長として審査に臨んだ。会場は女川町生涯教育センターの大ホール。小学生の作文朗読もあり、感動を再び味わうことができた。
 弁士はサッカーチーム・コバレトーレ女川のキャプテン、水産加工場の女性中国人、アメリカ人の語学教師、東北電力社員、小学校教師、高校生ら国際色もあり、小、中学生堂々と意見を語り、会場からは大きな拍手が起こった。
女川町民弁論大会は「石巻かほく」「石巻日日新聞」などで紹介されるが、ラジオ石巻の社長をしているので、熱弁の声を電波で放送しようと審査中に思った。収録したCDを主催者から借りて入賞者たちの特別番組を作って後日に放送した。女川町にはFM電波なので届かないが、聴取エリアの石巻市、東松島市には出場者の身内、友人らが沢山いる。翌43回大会からは提供スポンサーもお願いして小学生6人全員、中学生、社会人は入賞者を1部、2部に分けて30〜40分番組に編成、放送した。CDを出場者にプレゼントして喜ばれた。
 3月11日の地震、大津波で女川町は一変した。生涯教育センターは被災し、第46回大会は中止となった。出場した小、中学生たちはどうしているのだろうか。サッカーで活性化を図ろうとしたコバレトーレ女川は解散した。
 11月、須田義明県議が安住宣孝町長の後を受けて無競争当選した。木村町長後任の須田善二郎さんは父親だ。任期途中、病気で亡くなったが惜しい方だった。
 手づくり町民弁論大会は2012年「文化の日」に復活しようと関係者は協議しているという。民間主導で45年間継続してしてきたことは、女川町の誇りであり、全国に自慢できるイベントだ。行政もバックアップして第46回大会をぜひ復活してほしい。
 取締役相談役 相沢雄一郎 2011年12月28日
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2011年08月31日

大震災に思う

 8年9カ月在任したラジオ石巻の社長を2月15日の株主総会で退任しましたが、3月11日の東日本大震災発生で当社も多大な影響を受けました。8月1日に石巻駅前・鋳銭場にある秋田屋ビル3階に本社を移転しました。放送開始は平成9年(1997年)5月28日でしたから14年間、お借りしてきた丸井戸(蛇田)の本社屋からお別れしました。
 私は平成14年6月に3代目社長を引き受けてからこの社屋で「むすぶ・つなぐ・地域の輪」をスローガンに地域密着型のラジオ石巻の運営をしてきました。自分でも「石巻 元気を出そうよ」という1時間番組や地域の経済人にスポットをあてる「経済サロン」を放送、親しまれ、信頼される地域ラジオ局づくりに取り組んできましました。もともとは新聞記者であり、電波メディアは初めての経験でしたが、新聞とはまた別の面白さ、楽しさがありました。
 そうした中で、地震、津波、風水害などの災害に遭った時、FM地域ラジオはどんな役割を発揮し、地域の皆さんにどのように災害情報を伝えればよいのかということを考え、石巻市、東松島市の行政側にもラジオ石巻の活用策を要望してきました。両市とは「災害情報協定」を締結しましたが、私からすれば石巻市の対応は消極的でした。大災害があった時、食糧、水、避難場所などをどうやって市民に伝えるのか。防災行政無線システム、市広報車だけで周知できるのか。ラジオ石巻を補完役として活用したらどうか、という意見具申をしてきました。
 防災行政無線システムは、旧石巻市の場合、屋外受信機175基ありますが老朽化しています。合併6町は個別受信機が主体でまちまちです。新石巻市は現在のアナログ方式をデジタル化に切り替え
平成24年度から工事を行う計画でした。その費用は27億円ということです。
 そうした時に大震災に襲われました。私は確実視される宮城県沖地震に備えて、平成19年夏、330万円で無線送信機を載せた移動無線中継車「らじいし号」を配備しました。
 3月11日午後8時ころ、ラジオ石巻スタジオと日和山送信所を結ぶ送信ケーブルが故障し放送が
ストップ。13日に無線送信機を市役所4階の広報公聴課の一角に置かせてもらってラジオ石巻からライフライン情報、市行政情報などを放送、15日からは市長申請の「さいがいFMラジオ」として出力を100ワットに増力、放送を続けました。
 今度の大震災で多くの市民が亡くなり、行方不明者もいます。
 社長退任後は相談役になっていますので、時折、石巻に行きます。起きてしまってから「こうしておけばよかったのに」という思いもします。友人、知人で津波で犠牲になった方もいます。「防災行政無線から大津波が来るから早く逃げなさい」という警告が聞こえなかったのか、尋ねたいのですがもはやかないません。
 しばらく、ブログを休んでいました。8月31日。相沢雄一郎
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2011年04月07日

被災者に頼りにされるラジオ石巻

 仙台放送テレビ(フジテレビ系)は4月7日午前9時からの「とくダネ!」のなかで、ラジオ石巻の女子アナウンサーたちが3月11日発生の東日本大震災の災害情報を懸命になって放送する姿を伝えてくれた。当社の後藤優子アナを中心に「被災者を支えるラジオ局のママさんDJ」というタイトルで取り上げていたが、私どもの小さなFMコミュニティラジオ局が地域の皆さんから頼りにされ、希望の灯をいくらかでも与えているーということを強く感じた。
 私は2月15日の株主総会で8年9カ月在任した社長を退任した。放送開始は1997年(平成9年)5月28日。2002年(同14年)6月から3代目社長として多くの地域の方々の支援を受けて「オール市民ラジオ」「地域密着」「中立公正」の基本方針で純民間資本の会社を運営してきた。地域FMラジオは地震、津波、風水害などの災害情報を放送することも重要な役割であることを役員、社員、スタッフに話してきた。しかし、災害はいつ来るのか定かでない。日常の業務に追われたなかで、それぞれが心の備えを持ってくれていたのだろう。
 これまでも2002年夏の北上川洪水、2003年7月26日の旧矢本町、河南町に大きな被害を与えた宮城県北部地震、昨年2月28日のチリ地震津波報道など、その都度、できるだけの放送をしてきた。
 しかし、今度の地震、津波は予測された宮城県沖地震をはるかにしのぐ巨大なものだった。社員、スタッフの中で家を流され、浸水に遭うなどの被害があった。後藤優子アナは地震発生の放送をした後、石巻市役所に行ったが、浸水で戻れず、市庁舎内で一夜を明かした。4歳の娘は夫と過ごしたが、優子アナ一家は大崎市の実家に避難している。企画制作部長の高橋幸枝アナは2児の母親だ。
武山未来アナは両親と一緒に住む旧雄勝町(石巻市)の自宅が津波に流された。
 当社は浸水の被害はなかったが、3月11日午後8時過ぎ、日和山にある送信所アンテナと結ぶ回線にトラブルが発生、放送が中断してしまった。12日は放送できなかったが、13日は送信所に放送機材を運び、自家発電機を運転して放送再開。14日には移動無線中継車「らじいし号」の送信機を石巻市役所4階の広報公聴課に配置して臨時サテライトスタジオを設置した。「らじいし号」は開局10周年を機に330万円で配備したものだ。
 15日には亀山市長が申請者となる出力5倍増の100Wの「石巻さいがいFM局」が開局、災害情報専用のラジオ石巻として鈴木専務、今野営業・技術部長が中心となって災害関連放送 に当たっている。
 仙台放送テレビは、避難所にいるお年寄りが携帯ラジオで聴く女子アナの声で元気になる、灯油配給の列に並ぶご婦人はラジオ石巻の情報で来た、精神科開業の院長が子供の心のケアをするような放送を流して、などラジオ石巻を頼りにする映像を放送した。
 ラジオ石巻スタジオと送信所を結ぶ回線は3月28日に復旧したので、市庁舎の臨時サテスタと2元放送をしている。
 私は今は仙台の自宅にいる。震災直後はガソリンはなく、三陸自動車道も使えず、被災現場をわが目で見ることはできなかった。その後、緊急役員会などで石巻に行き、中心商店街、周辺地域を回ったが、長年、お世話になった石巻地域の余りにも悲惨な姿、多数の犠牲者に「どうしてこうまでに」と、胸が張り裂ける思いだ。
 私は「石巻かほく」を30年前に創刊、3階建て河北ビルを建てた現地責任者であった。1階は浸水して制作設備が使用できなくなった。河北本社で新聞制作しているが、スタッフは地域の実情取材に駆け回っている。
 亡くなった友人、知人もいる。仙台の友人からは石巻に住んでいる人の消息を知りたいという電話も来る。震災発生後、1カ月になる。見通しがつかない状況はいつまで続くのだろうか。 
 「むすぶ・つなぐ・地域の輪」を掲げるラジオ石巻は皆さんと共に頑張っていく。
 取締役相談役 相沢雄一郎
posted by 相沢 at 22:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月06日

貞観の大地震と同じでないだろうか

 4月5日付の河北新報夕刊で仙台市在住の郷土史家、飯沼勇義さん(80)が、1995年(平成7年)に「仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う!」と警告する本を出版していることが紹介されていた。
 出版当時、私は河北新報の編集担当役員をしていたが、飯沼さんはカキ殻の利活用の研究もしており、以前から相談を受けるなどのお付き合いがあった。
 3月11日の東日本大震災で、三陸沿岸地域は大津波に襲われ、石巻、東松島市、女川町はじめ、仙台、岩沼、名取市、亘理、山元町も大被害に遭った。
 「飯沼さんが警告していたことが本当だった」。出版した本は書棚にあったはずだと、探したが見つからない。インターネットでわが国の巨大津波をチェックすると、飯沼さんと同じようようなことを警告している地震学者ら幾人かいた。
 政府の地震調査委員会は、1978年(昭和53年)6月12日の宮城県沖地震(M7・4)クラスの大地震が100%近い確率で発生するとしてきたが、気象庁などは3月9日の三陸沖地震(M7・3)は宮城県沖地震との連動性は低いとみた。しかし、2日後の11日、M9・0の明治以来最大の巨大地震が発生、高さ10bから30数bの大津波が押し寄せ、死者、行方不明2万7千人以上、壊滅的な惨状となった。
 海岸線に近い東京電力福島第1原発は津波で運転不能になり、危機的状況だ。
 宮城県沖地震クラスの大地震は過去200年間に4回発生、その間隔は平均37・1年と調査委員会ではみてきたが、今度の発生個所は予測される宮城県沖地震とは異なる個所ではないのか。
 飯沼さんによると、天平時代869年の貞観(じょうかん)地震(M8・3)は国府多賀城の城下を襲い多数のでき死者を出した。1611年の慶長三陸津波(M8・1)でも仙台平野一帯が冠水、太白区長町4丁目周辺に押し寄せた、と史実で証明している。
 飯沼さんら地震学者、歴史学者は200年間前後で大津波を伴う大地震が発生していると警告している。この歴史上の事例をどのように捉えるべきなのか。私もその1人だが、軽んじてきたと悔やまれる。相談役 相沢雄一郎
posted by 相沢 at 00:07| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月02日

頑張って!2度も地震に遭う 堀尾製作所

 3月30日夜のNHK「クローズアップ現代」で石巻市北村にある堀尾製作所が今度の大震災の中で立ち上がろうとする姿が紹介された。2008年6月、私が担当するラジオ石巻の「経済サロン」で社長の堀尾正彦さんと対談した。精密亜鉛ダイカストメーカーで「明日の日本を支えるモノづくり300社」に選ばれるなど精密部品製造で有名企業だ。父親が創業し、旧河南町北村のサクラの山で知られる旭山ふもとに工場を作った。1996年、40歳台で2代目社長になり中国・大連にも工場を進出させた。
 堀尾製作所は2003年7月26日、隣接の旧矢本町(現在、東松島市)を中心に発生した宮城北部地震にも遭った。「経済サロン」の事前取材で訪れたとき、堀尾社長は「あの時は震度6で工場が倒壊するなど大変だった。しかし、3日間で生産を始めた」と言っていたが、今度は大津波に襲われた下請け工場がすっかり流されてしまった。最終工程担当の重要な工場だ。
 テレビで見た限りでは工場は倒壊していなかったが、機械はかなりの被害を受けていた。しかし、堀尾社長は数十人の従業員と一緒に早くも部品づくりに挑戦していた。工場を失った下請けの社長、従業員もチェック作業に加わっていた。
 宮城県はトヨタ系列のセントラル自動車など自動車産業誘致に成功して、これから、という時に大地震に襲われた。部品を供給している堀尾製作所も厳しいだろう。
 年間の製品は1,800種類、個数は3億数百万個という。「規模より製品の中身で世界を目指す、オンリーワンの部品工場になる」とラジオ石巻のマイクで語った堀尾社長。NHKテレビで意欲あふれたお顔を見て「2度目の大地震も克服できる、大丈夫だ、頑張ってほしい」と願った。
 3月30日夜、取締役相談役(前社長) 相沢雄一郎
posted by 相沢 at 12:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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